長嶋茂雄選手と互いに瞳を交わしあった20歳の頃 蓮實重彦さん寄稿

ヒットを放ち一塁ベース上で背番号3を見せ笑顔を見せる長嶋茂雄氏=1974年10月14日、東京・後楽園球場  ふと目にした6月4日付のさる日刊紙の一面には「長嶋茂雄さん死去」の8文字が横組みの白抜きで印刷され、その脇に「ミ [...] The post 長嶋茂雄選手と互いに瞳を交わしあった20歳の頃 蓮實重彦さん寄稿 appeared first on Japan Today.

長嶋茂雄選手と互いに瞳を交わしあった20歳の頃 蓮實重彦さん寄稿
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ヒットを放ち一塁ベース上で背番号3を見せ笑顔を見せる長嶋茂雄氏=1974年10月14日、東京・後楽園球場

 ふと目にした6月4日付のさる日刊紙の一面には「長嶋茂雄さん死去」の8文字が横組みの白抜きで印刷され、その脇に「ミスタープロ野球」という大きな活字が縦組みで読みとれる。嗚呼(ああ)、何という事実の歪曲(わいきょく)! 何という死者への冒瀆(ぼうとく)! 亡き長嶋氏と同じ昭和11年生まれで当年89歳になるこのわたくしが断言しておくが、読売巨人軍に入団してプロとして歩み始める以前の長嶋氏は、すでに東京六大学リーグの選手時代から、神宮球場のスーパースターだった。どうして、マスメディアはその厳粛な事実を無視できるのか。「ミスタープロ野球」の一行は、電子メディアにも無責任に横溢(おういつ)することになる。

 小学校時代から野球にいそしんでいたわたくしは、中学高校時代には「野球など馬鹿にもできる」と高を括(くく)って陸上競技に転向していたが、東京大学に入ると、本屋敷錦吾遊撃手の俊敏さに強く惹(ひ)かれ、対立教戦もしばしば神宮球場で観戦した。わざわざ三塁側の最前列に陣取り、すでに佐倉一高出身だと知っていた長嶋選手が打席に立つと、「この千葉の山猿!」と大声で罵倒したものだ。その何度目かの大声に振り向いた長嶋選手と、ふと視線が交わった(ように思う)。まだ20歳になったばかりのわたくしたちは、衆人環視のもと、たがいに瞳を交わしあうほどの特殊な仲だったのである。

 6月4日の夜、読売巨人軍は…

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