第6回国境越えよ「原爆の子の像」の願い 差別を乗り越え、今夏も鶴を折る

つむぐ 被爆者3564人アンケート 金花子さん(84)  夏が近づくたびに体調が悪くなり、気が沈む。広島県呉市に住む金花子(キムフャジャ)さん(84)は「やっぱし原爆のイメージがわいて。食欲が落ちてもう何も食べたくない。 [...] The post 第6回国境越えよ「原爆の子の像」の願い 差別を乗り越え、今夏も鶴を折る appeared first on Japan Today.

第6回国境越えよ「原爆の子の像」の願い 差別を乗り越え、今夏も鶴を折る

つむぐ 被爆者3564人アンケート 金花子さん(84)

 夏が近づくたびに体調が悪くなり、気が沈む。広島県呉市に住む金花子(キムフャジャ)さん(84)は「やっぱし原爆のイメージがわいて。食欲が落ちてもう何も食べたくない。体もだるいし」と話す。あの夏の日から変わらない。

写真・図版
「原爆の子の像」の前で、像のモデルとなった佐々木禎子さんについて語る金花子さん=2025年5月23日午後2時34分、広島市中区の平和記念公園、上田潤撮影

 朝鮮半島の釜山から日本へ渡った両親のもと、1940年に大阪で生まれた。1歳の頃、両親は一家で故国に帰ろうとしたが、金さんが熱を出して乗船できなかったと後に聞かされた。父の仕事の関係で、2歳の頃に広島に移り住んだ。

 間もなく5歳になる45年8月6日朝、父が出かけるのを見送り、自宅には母と弟、妹といた。母が電灯に布をかぶせた瞬間、ピカッと閃光(せんこう)がはしったかと思うと、辺りが真っ暗闇になった。

 被爆したのは爆心地から約2キロ。屋内にいたためやけどはしなかったが、しばらくは頭痛とめまいがひどく、食欲もなかった。母が作ってくれたおかゆをやっと口に入れたが、大好きなはずの梅干しがのどを通らなかった。髪の毛がごっそりと抜け落ちた。

 幼い時から日本名の「金田花子」を名乗っていた。両親は家の中でも日本語で話し、出自を意識することはなかった。

 小学校高学年の頃、同級生の…

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