初任地は被災した地元 取材はいつも「現実に向き合う」苦しさと共に
避難した羽咋市役所の4階から撮影。右奥に日本海が広がり、大津波警報が発令されていた=2024年1月1日午後4時38分、石川県羽咋市旭町、砂山風磨撮影 昨年の元日、午後4時10分。私は能登半島の父の故郷、石川県羽咋(はく [...] The post 初任地は被災した地元 取材はいつも「現実に向き合う」苦しさと共に appeared first on Japan Today.

昨年の元日、午後4時10分。私は能登半島の父の故郷、石川県羽咋(はくい)市の神社で、引き当てた「大吉」のおみくじを家族に見せていた。すると、聞き慣れないスマホのアラームが鳴り響き、直後に地面が激しく揺れ出した。
とっさに鳥居から離れ、地面にしゃがんだ。揺れる社殿から、おはらいを手伝っていた巫女(みこ)たちが飛び出してきた。どこからか「やめてー!」と叫ぶ声が聞こえ、石碑が崩れる音も響いた。大津波警報が発令され、家族と坂の上にある市役所へ避難した。
津波が街をのみ込んでいく光景が脳裏に浮かんだ。2011年の東日本大震災で被災した三陸沿岸を訪れた記憶がよみがえった。
大学時代を宮城県で過ごし、震災の教訓を学ぶため三陸沿岸地域をたびたび訪れた。津波で変わり果てた街並みや、震災伝承施設で見た津波映像の恐ろしさは心に深く刻み込まれていた。「自分ごとにして災害に備えたい」。そう誓っていたはずだった。
しかし、その日、家から徒歩10分の神社で避難を余儀なくされた。水も食料も持たず、スマホのバッテリーは5%を切り、モバイルバッテリーや、充電器もない。これまで、いったい何を学んできたのか。
避難所では、繰り返し余震があり、緊急地震速報が鳴り響くたびに悲鳴に近い声が上がった。大きな津波は来るのだろうか。どんな未来が待っているのか。不安のあまり気分が悪くなり、配布された防寒用のアルミシートにくるまって動けなかった。現実から、目を背けたかった。
春から記者として働くことになっていた。現場で起きる事実を見聞きし、記録するのが理想の記者像だった。「こんな自分に、記者ができるのか」。心の中に重い課題を抱えた。
あれから4カ月。初任地は金沢総局となり、被災した地元が取材の場になった。現実に向き合うのは苦しかった。家族を亡くし、住まいや生業を失った被災者の声を聞いては、力になりたいと願って原稿を書いた。昨年9月には奥能登豪雨があり、再びの被災に「心が折れた」という声を何度も聞いた。その場で何も力になれない歯がゆさを感じながら、取材して歩いた。
今ではモバイルバッテリーや薬に加え、常にペンとノートを持ち歩いている。現実に向き合い、一つひとつの言葉を真摯(しんし)に記録する。そんな記者を目指し、仕事に取り組んでいる。
The post 初任地は被災した地元 取材はいつも「現実に向き合う」苦しさと共に appeared first on Japan Today.