6歳で体験した満州「地獄」の逃避行 母は1歳の弟を滝つぼに投げた
旧満州からの逃避行について語る斎藤幸子さん。目は潤んでいた=2025年8月11日、山形県鶴岡市、斎藤徹撮影 80年前の8月、山形県鶴岡市の斎藤幸子(さちこ)さん(86)は旧満州から母、妹2人、弟と日本をめざした。「この [...] The post 6歳で体験した満州「地獄」の逃避行 母は1歳の弟を滝つぼに投げた appeared first on Japan Today.

80年前の8月、山形県鶴岡市の斎藤幸子(さちこ)さん(86)は旧満州から母、妹2人、弟と日本をめざした。「この世のありとあらゆる地獄を見た」という逃避行の記憶をつむぎ、語ってくれた。
1939年、中国東北部の東端、ソ連国境に近い永安屯(えいあんとん)の「山形村」で、私は生まれました。庄内の農家の四男坊だった父・与蔵(よぞう)は、前の年に母・清女(きよめ)と結婚し、開拓団員として渡ったそうです。
40年に次女の昭子(あきこ)が、次の年には三女の三重(みえ)が生まれました。当時の風景で覚えているのは、どこまでも続く平原に広がるヒマワリ畑と、食用ホオズキの赤い実。妹をおんぶしながら実をもいで食べました。大きなスイカもなり、食べきれない分は母がジャムにしてくれました。
平屋のレンガ造りの家では、父が竹を使っておもちゃやそりを作ってくれました。器用な父は尺八も自分で作り、流行歌や軍歌を聴かせてくれました。気さくな人柄の母は近くに住む中国人とも仲が良く、ギョーザやシューマイをもらっていました。豚や鶏も飼い、開拓村でひもじい思いをした記憶はありません。
穏やかな生活は、父の死で終わりました。44年3月、弟の洋一(よういち)の誕生直前に兵隊に召集され、半年後に白木の箱で帰ってきました。5歳だった私は「お父さんはいなくなったんだ」と思っただけでした。
45年8月の初め、「ソ連兵が攻めてくる。逃げるよ」と母が言いました。馬車2台に家財道具を詰め込み、近所の人たちと一緒に。逃避行の始まりでした。
たき火めがけ銃弾
月の出ている夜。たき火めが…
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