数奇な運命 いまに伝える障壁画 智積院 京都シン寺社案内
JR京都駅に近い東山七条にある智積院(ちしゃくいん)(京都市東山区)は、室町時代に和歌山県の根来(ねごろ)寺の山内に建立された寺院だった。戦国時代に最盛期を迎えた根来寺は豊臣秀吉の焼き打ちにあう。玄宥(げんゆう)僧正が [...] The post 数奇な運命 いまに伝える障壁画 智積院 京都シン寺社案内 appeared first on Japan Today.
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JR京都駅に近い東山七条にある智積院(ちしゃくいん)(京都市東山区)は、室町時代に和歌山県の根来(ねごろ)寺の山内に建立された寺院だった。戦国時代に最盛期を迎えた根来寺は豊臣秀吉の焼き打ちにあう。玄宥(げんゆう)僧正が智積院の復興を念じ、難を逃れて、高野山、醍醐寺、神護寺などを転々とするなか、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康から、当時は東山の阿弥陀ケ峰にあった、秀吉をまつる豊国(とよくに)神社境内の坊舎と土地を与えられ再起の足がかりとした。
※特別な許可を得て撮影しています
その後、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、智積院に隣接していた祥雲(しょううん)寺を家康から譲り受け、境内は広がった。祥雲寺は、秀吉が子の鶴松を3歳という若さで亡くし、菩提(ぼだい)を弔うために建立した寺院だった。
豊臣から徳川の世へ。秀吉の痕跡を消し去りたい家康の思惑のなか、秀吉に紀州を追われた智積院が、秀吉が残した祥雲寺を引き継ぎ、復興を果たすというのは、何か歴史の因縁を感じる。
境内の北側にある大書院(お…
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